7月22日の「三菱重工カップ 平川忠亮引退試合」を控えて、元番記者が現役当時の平川忠亮さんについて原稿を寄せるシリーズ。
曰く、歴代監督から一目置かれたずば抜けたセンス。
曰く、チームイチ高いサッカーIQ。
曰く、野人から速さを認められた男。
曰く、浦和の裏番長。
その一方、「好きな時間は?」と聞かれれば、「親子で川の字で寝ること」と言うほどの家族思い。
さらに散髪の際は地元・清水まで車を飛ばし、切ってもらうほどのこだわりの強さもある。
平川忠亮には数々の形容がなされる。
盟友小野伸二、高原直泰らと同じ黄金時代にあって、不思議と代表には縁がなかったが、その才能と実力は誰からも認められたところ。
知る人ぞ知る隠れた天才のイメージが漂う。
ただ、その第一印象とはその真逆だった。
ハンス・オフト監督2年目の2003年。全体練習が終わったピッチにはいつも平川の姿があった。
本来、右利きの平川が指揮官から左サイドでのプレーの習得を厳命された。
はじめは左サイドから右足でクロスをあげていた。そのクロスはまずまずだったが、クロスをあげる際、どうしてもスムーズではない。これでは相手に取られてしまう。そうこうしているうちに、いつの間にか左サイドから左足で、しかも右足を同じようなクロスをあげられるようになった。
以前、このことを聞くと、はじめは苦労したそうだが、左右蹴られるたことで「選手寿命は長くなった」と話していた。
「若いうちの苦労は買ってでもしろ」と昭和な物言いだが、才能に溺れることなく、若手時代の努力があったからこそ、浦和のレジェンドを言われ、歴代4人目となる引退試合が開かれるようになれた。
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